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発行月 つぶやき
2001年 1月号
 人類が初めて音速の壁を超えた時の話をご存知だろうか。
 その米軍パイロットによると音速を超える直前は、全ての音が機体についてくるため、ものすごい騒音と振動による空中分解の恐怖に耐えつづけていたという。ところが、音速を超えた瞬間、全くの静寂の世界になったそうである。
 そうなって初めて漆黒の宇宙と地球の青い大気に気づいた。それまでも目前に広がっていたはずの光景だが、恐怖のために見ていながら目に入らなかったのであろう。美しい光景に我を忘れていたそうだ。その静寂が音速を超え、一切の音が機体について来れなくなったためであることに気づいたのは、しばらく経ってからだったらしい。
 私にも、類似の体験がある。仕事が忙しすぎて、恐怖に近い精神状態に長くあったころの話である。必死で耐え、がむしゃらだった。ところがあるとき、「ふっと」楽になった。それまでの不安は失せ、面白いように様々なことを捌けるようになっていた。
 中学生の時に読んだ先の話を思い出し、すがすがしかったことを、今でも昨日のように覚えている。
 しかし今また別の壁を越えなければならない気がしている。

2001年 2月号
 忙しすぎて疲れたり、難題に突き当たると、気づかぬうちに心は淀んでいく。からりと晴れた気持ちを思い出すことすら忘れている。そんな状況で浮かぶことに、ろくなことが無い。他人への誹謗中傷、悪意の湧出。自分の醜さに呆れ、また沈んでいく。疲労性自家中毒症だ。
 しかし、妙薬がある。
「志は、高く透き通らせよ。」
 何処までも高く、青い空。白い雲。天空を描き、初心を思い出す。誰のために、何のために、自分は今、何をすべきなのか。透明な初志は、何だったか。すべてはそれに従おうと。
 我々の成せることは、凧に似ている。大空の凧。糸の切れた凧。飛べない凧。凧は、風を受けて飛ぶ。無風では走っても舞うことは無い。風が強すぎても弱すぎても、高く上がらない。大きく舞い上がりすぎて、地表の基点を忘れたら、糸が切れて風任せになる。
 巧く行かないのは、自分の心が濁っているからだ。時の風を受けず我力のみで飛べる凧は稀だ。余計なことを考えすぎ、小手先で回していないか。直に濁り、私心を重ねる我執こそ、問題だ。
 一度、小ざかしい執着から離れみると、それらが如何に自分を蝕んでいるか。
 次は、捨てることから始まる。

2001年 3月号
 上司から、あるいは客先から無理難題を掛けられたら、どうするか。断れたら一番楽だ。最も苦しい選択は、黙って対応することである。が、相手を責めても何も解決しない立場では、屈折するのが人情だろう。
 幾度となく、難題の煮え湯を飲まされる。折角対応しても、いとも簡単に方針が変わる。前回からの作業は水泡に帰す。自分の精一杯の良心まで踏みにじられ、値亡きものと化した気がする。不毛の砂漠を歩かされている罪人ような気になってくる。
 心は、地獄の只中である。これで良い成果が得られようはずも無い。難題が重なるたびに成果の質は低下する。それが自他共に判るだけに、一層事態は深刻になっていく。
 くたびれた果てに、浮かんだ言葉がある。「無理難題を言われたら、高く評価されていると思え。」
 より高度な期待をされて、応えられるか否かは、ギリギリの勝負処である。鬱屈して取り組むのと、期待を感じて取り組むのでは、姿勢が違う。重圧に負けず活躍するスポーツ選手の心情はこのようなものか。心は少しずつ、軽くなっていった。
 今日まで、この言葉に力づけられること甚だしい。今では、この言葉との縁を結んでくれたことに感謝をしている。

2001年 4月号
 時間と金とどちらを大切にするか。と問われたら、何と答えるだろうか。
 本来、全く別物の二者択一を迫られると案外、困惑する。
 ある異業種交流会に招かれた時、一通り起業論をぶった後、この問いを投げかけた。金は、稼ぎ直すことができる。時間は、二度と戻らない。時間を無為に費やす人に、成功者を見出したことが無い。
 格言「一瞬の光陰軽んずべからず」は衆知である。知識・教養と行動の不一致も衆人の常である。叩かぬ扉はいつまでも開かぬ。しかし、時の参集者は、すぐに会社を設立、新規事業を興した。彼らは、志の道を歩み始めた。
 時間を無為にしないためには、自らの覚悟と、周りの協力が欠かせない。自分の仕事を手伝ってくれるスタッフや協力会社の方々は、貴重な時間を自分に分けてくれている。
 時間を分かち合うこれらの人々を粗末に考え、作業者・下請け・出入り業者扱いをしている人間は、自分の値と自分の時間をその程度にしか見ていない証だ。仲間を粗末にするものに、今日はあっても将来は、無い。今を慢じて将来を貧するも、今重して将来を富するも、現在の姿勢次第である。
 パートナーシップ、訳して協働。言葉は日毎聞くようになったが、身近な実体は、おぼろである。

2001年 5月号
 ノンバーバルコミュニケーションという、研究領域がある。意訳は「非言語による意志伝達」である。コミュニケーションは、言葉で行っていると思いがちであるが、学術的に、言葉から直接受け取っている割合は、17%に過ぎないという。身振り・語気などから伝えられる情報が意外と多い。人は、言葉だけで会話をしている訳ではないのである。
 仕事柄、プレゼンテーションの機会が多い。内容にもよるが、文字だけで伝えようとせず、図など視覚的な要素を盛り込んだり、身近なたとえ話で理解の周辺を広げる工夫をしている。が、最も重要なことは、自分が伝えようとしていることに確信をもっているかどうか、ではないか。伝えようとする側に芯(信)が無ければ、伝わるものも伝わらない。
 電子メールは、今や必需品となった。さまざまな発明によって便利な伝達ツールや媒体を、我々は手に入れた。一方で、伝えるべきものの芯は、一層ぼんやりしていないだろうか。
 激変しつつ見える社会は、カーブを走る車のようである。曲線によって、車窓が変化するだけなら、横に気をとられるより、行先を見据えハンドルはしっかり握っておかなくては、危なくてしようがない。

 次号は我々が忘れつつある「場と伝達」について触れようと思う。

2001年 6月号
 「伝える」の続きである。

 場を共有することによって初めて伝わるものがある。電子媒体を使いこなすとは、場を越えて伝えられるもの・伝えるべきものと、場を共有することによってのみ、伝えられるものを掴み、混乱無く道具を使う人の姿勢のことではないか。
 紙誌・メールなど媒体で伝えにくいものに、一期一会の縁がある。死語になりつつある「縁」の意味、出逢うということの価値について、現代ほど見失われたものは無いかもしれない。
 出逢いから、共感・共鳴へと連なる価値について、旅・行き交うことが困難であった時代、我が国には、大きな価値が見出されていた。
 茶道に言う「席」:招客と亭主の共鳴の場とそれによってもたらされる縁。そして、それらの価値。席という言葉には、文化という平坦な印象を超えたものがある。我々の文明がいま、その真価を見失っている。かつて、我が国には、その真価を見抜いた人々がいた。そこからは、様々な会話・手順・様式が産まれた。文明の利器の便利さのみに埋もれ、我々はむしろ、智慧的には後退しているのかもしれない。
 折角持って生まれてきたのに、ろくに使わずに死んでいくとしたら、こんなに無駄なことは無い。
 智慧は、限られた人財にしか備わっていないものではないはずである。
使わぬ刀は錆び、朽ちていくのみである。

2001年 7月号
 良いことをすると気持ちが良い。人に隠れた善行こそ値があるように思えたりする。
 ある日、人知れず道端のゴミを拾っていた。このゴミを捨てた人は、僕に支えられていることなど、思い至らないだろう。
 鼻がムズムズしていた。
 次の瞬間、大声で怒鳴られたような気がした。「ではお前は、自分の気づかぬ間にどれくらいの人に支えられているか知っているのか?」
 驚いた。不思議な体験だった。自らの内なる声のようでもあり、どこからか聞こえたようでもあった。
 社会とは何か。それは、関係性の無限連続である。誰一人として一方的に支えている者もいなければ、支えられ続ける者もいない。「情けは人のためならず」とは、巡ってやがて自らのため、と社会の連続性・循環性を喝破した名言であった。連続性と相互依存性。この本質を掴まなければ地域社会は、見えない。
 支えられる。
 言葉にしてみれば、平凡、単純だ。それが重く感じられていた。「してあげたこと」は、忘れぬくせに、「してもらったこと」には思いが及ばぬ。これが、己の正体であった。
 その身が地域社会を考えている。怖ろしくもあり、いじらしくもある。

2001年 8月号
 檀家の無い禅寺に十年来通っている。その弁天会で伺ったお話から。
 三猿とは、日光の「みざる・いわざる・きかざる」のことをいう。この三法は悪事への対処法である。加えて、四匹目のサルがいるらしい。
 富のウ冠と、福の示編を併せて、宗となる。では、富の残りと、福の残りは、如何に。一・口・田である。
 これは、一日食べれば足りるだけの田の意。本来、富も福も大きな財のことを差したのではないらしい。
 中華料理店で福の字が上下逆になっている額を見たことがある。「既に、十分な福が来ています」という感謝の意と聞いた。贅沢を望むはバチとの道徳と軌を同じにする。
 「『不足』が、不足な時代。」お宝番組で有名になったブリキ博物館長の言葉。「不足」が悪なのではない。浅薄な満足が時に悪を呼ぶ。
 自由とは何か。勝手気侭に部屋を散らかして、探し物が見つからない不自由は、どうしたものか。整理してある中にこそ「自由」はあるのかも知れない。自由とは、「自らによる」の意。
 四匹目は、悪事を「せざる」。説法師は股間を隠して笑わせた。悪事は法を犯すことだけではない。芽を摘む、足を引っ張る。身近にも悪事はある。四匹目のサルも、なかなか侮れない。

2001年 9月号
 非科学と未科学。非科学とは、科学的根拠がないもの。未科学とは科学的に解明されていないものである。科学者は、未科学を科学する人のことである。未科学と非科学の区別がつかないと科学者失格だろう。
 ところが、世間一般では両者の差は意識されていない。未科学も、非科学ないし迷信と決め付けられる。
 かつて小児鍼があったという。鍼といっても羽毛のようなものらしい。それで背中のツボを撫で、疳の虫を取り、心を安定させたそうである。そういえば、子どもの頃、親に背中を撫でてもらっていた。泣き叫ぶ子どもを鎮める手立てを知らない今の母親は不幸かもしれない。小児鍼は、子育てに疲れた母親を癒すためにも、関西で再生しつつあるらしい。小児鍼を科学する道がないものか。
 西洋科学が知らなかった東洋の知恵・日本の知恵は未科学と非科学の混同の波に呑まれた。明治維新・敗戦・高度成長を経て永年蓄積してきた知恵は、見事なまでに分断された。
 我々の社会は本当に、深い知恵を内包しているのだろうか。科学技術の恩恵に浴していながら、非科学と未科学を混同していては、無科学と言われても致し方あるまい。
 科学が知っていることは、この世のほんの一部に過ぎない。眼を上げれば未科学の大原野が広がっている。

2001年10月号
 「治る気の無い患者は治せない」と医師から聞いたことがある。ところが、米国の医師が書いた『癒しのことば(春秋社)』は、患者の意思と共に、医療関係者の意思も治療効果に影響を与えていると言う。患者と医療関係者。ともに平癒を願うべきだと言う。数多くの科学者による論文を基に、臨床応用をした膨大な症例が、同書には紹介されている。
 これは、非科学なのか、未科学か。
 この指摘を地域づくり・街づくりに適用したらどうなるか。街や地域を何とかしたいとの住民の願いのみならず、彼らを支援する政治家・行政・専門家・技術者、すべての関係者にも同じ願いがないと「患者(街や地域)は治せない」ことになる。
 街づくり・地域づくりは、単なる技術や制度で興り、活性化するものではない。人の活動が全ての鍵を握っている。とすれば、我々街づくり・地域づくりに関わる者に課せられているのは、深遠な世界に通ずるものなのかも知れない。
 地域社会の活性化症例には、住民と関係者の協働の深い願いが必要であるという指摘を無科学と笑うことは、未科学を科学するアプローチ、すなわち科学そのものを笑うに等しくはないか。
 多くの方々と共に、深く自身を省み続けて行きたい。

2001年11月号
 国に「失敗を社会の公共財にする」動きがあるそうだ。
 価値ある失敗とは、常識外の事態が起こった時の失敗や新しい発見を導いたもの。無価値な失敗とは、ポカ・サボり・不注意によるものらしい。しかし、無価値なものも組織運営上の問題や労働環境上の問題に起因するとき、価値のある失敗に属せられるべきであろう。
 世界的に有名な化学製品企業での実話。強力な糊の開発過程で非常に弱い接着剤ができた。目的からすると、失敗である。しかし、この会社はそれを社内データベースに蓄積した。数年後、別な社員がそれを発見し、付箋紙に応用して大きな収入をあげた。失敗の価値判断は難しい。
 ノウハウとは、「@どのような課題があり、Aそれをどのように考えBどのような対策を講じC何が解決でき何が解決できなかったか」一連の情報を整理して蓄積することだ。
 失敗データベース・失敗博物館は、失敗情報を社会的共有財産とすることで、より高度な知識ベースの構築を目指すものであり、その意義は大きい。失敗を恥とし、できるだけ隠し忘れようとする我が国の文化土壌を変えることができるか。我々の意識改革を伴う取り組みが、成否の鍵を握っている。

2001年12月号
 一生の出逢いというものがある。
 三十にして立つとの孔子の教えに、自分の道を決めかねていた頃、ひとりの禅僧に面識を得た。檀家も無い小寺の住職だ。
 自分は開眼していない。からりとおっしゃる。飾り気の無さが沁みた。座禅会の方々の魅力にも後押しされ、なんとかお仲間に混ぜて頂いている。
 座ることは、中々である。足がしびれる。妄想が頭を巡る。気がつくと、体は座っているが、心は据わるどころか、迷いの只中にある。それでも坐るのは、何故なのか。
 多忙でしばらく不参が続いた。その理由を述べると「坐る気が無いからだ」とバッサリ。一言も返せぬ。
 良師に出逢うは、一生の宝に違いない。学生時代を始め、家族に社内、知己にも多くの師がいる。身近な師にハッと教えられることが多い。過ちを繰り返す凡夫に飽きずにお付き合い頂いている。この縁の何と稀有なことか。
 齢は、「不惑」四十を超えた。
 孔子の境地には、遥かに及ばぬ。光陰矢の如し。少年老いやすく。学成り難し。
 師恩に報いるは、精進あるのみ。それが判っていながら続かぬのもまた、凡夫の証である。
 今年もまた、暮れてゆく。

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